備忘録『正論』

 正論ってのは往々にしてすり合わせを拒むことが多い。
「正論」だからまさに正しくて非の打ち所がない。 
妥協点も無いほどに研ぎ澄まされた正論は、時として実社会において害をなすことがある。
 正論なのに何故に正しくないのか?という疑問は当然だろう。 それを説明したい。 
 会社で行なわれる会議を想像して欲しい。 もちろんその会社における理想というものはある。会議の議題として売上をアップするにはどうしたらいいかというのは、あまりにありふれているのだけれど、その場合におけるアイデアと言うのは各部署によって様々だ。 その中には現場に苦行を強いるケースもあれば、管理側に責任をなすりつける場合もある。 そういった喧々諤々の議論の中で最終的にひねり出される案は妥協の塊だ。
 これは決してネガティブなことではなく、日常的に過去から現在に至るまで日々行なわれている。 
そのなかであまりに眩しすぎる「正論」はスポイルされる。 もっと言うならばそういった場において「正論」を振り回す者は疎まれることもある。 
なぜなら正論は正しいからだ。

練りに練った正論であれば反論のしようもないほどに正しすぎることになる。
そういった「あまりの正しさ」は反対に支持を集められない場合が多い。
集団の中で最適解を出すのが会議だとするならば、支持を集められない「正論」は結果として「空論」になってしまう。

理想と現実は常に乖離し、その埋め合わせにあくせくしているわけで、そこに正論をぶちかまされても腹が立つだけである。
それぞれに思惑があって意見もあればスネに傷もある。
理想と現実にある種のあきらめを持ち、打算と妥協のなかでひり出された「モノ」にこそ価値がある。
そういうものを作ろうと膝を突き合わせているのに、融通の効かない正しすぎる「正論」は邪魔でしか無い。

結局はアナログ的な妥協と打算で物事は進んでいくことになる。
若いうちは「正論」を振りかざし、正論を盾にして噛み付くこともあると思う。
けれど経験を重ねていくたびに正論の刺激の強さに気がつくようになる。

もう一つ、正論は時として人を傷つける場合があるということだ。
繰り返しになるが正論は切れ味が鋭い。その意見に遊びの部分が無いから弱者にとっての逃げ場が無くなる。
正論は時として人を追い込んでしまう。

正論を振りかざすのは一見正しく見えるのだが、実際はそうでないことが多いことを忘れてはいけない。
正論がその姿を変えぬまま突き進めるほどこの世の中は単純化されていない。
川原の石が流れによって角が取れ徐々に丸くなるように角ばった正論も多くのケースを想定しながら角を丸めていくことが重要だろう。




理想と現実は常に乖離し……笑

でもじゃあ、

自分の生きて行く軸は

どこに据えたらいいんだろうと、

まだまだ未熟な私は苦しい。

人と生きて行くことは

とても難しい。